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掌編小説『ホーローの記憶 ~第2章 ~』

更新日:8月26日

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皆さまからの温かいお言葉が、今後の励みとなります。これからも楽しんでいただける作品をお届けできるよう努めてまいります。

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息子の家を初めて訪れた日のことは、たぶん一生忘れない。それはひとつの風景というより、静かで、しかし深い音に近い感覚だった。遠い過去に聞いたことがあるような、でも思い出そうとすると少し遠ざかってしまうような──そんな記憶の深部で反響する、静かな響きだった。


駅前のロータリーに降り立ったとき、少し風が冷たかった。これから息子に会いに行くというのに、会いたい気持ちと、そうでない気持ちが、胸のなかで静かに反発し合っていた。それでも、そういうことはよくある。人間関係というものは、往々にして、そのくらい不器用なものでできている。


僕の息子という人間は、昔から多くを語らない子だった。生まれてから今日まで、彼が口にした言葉の総量を、スーツケースに詰めてハカリにかけたら、おそらく一つ分くらいに収まるだろう。けれど彼の言葉は、時に鋭く、時に柔らかく、どこか風通しの良い響きを持っていた。僕は、彼の中にある静かな部屋のような場所に、一度でも入ってみたいと何度となく思ったことがある。けれど、そのドアは決して開かれなかった。鍵がかかっていたのか、それとも最初からドアなど存在しなかったのか、それすら僕にはわからなかった。

僕自身は、古くからそこにあるような、静かなものに心を惹かれる性質だった。たとえば、南フランスの片田舎を旅していたとき、小さな骨董屋で出会ったホーローのキャニスター。棚の隅に置かれていたそれは、「Sucre(砂糖)」「Farine(小麦粉)」と手書きで書かれ、白地に赤いラインがかすかに剥げていた。ぽってりした厚みや小さな欠け、微細な傷が、その物に時間という見えない重さを与えていた。それを買い求め、今でも我が家のリビングに飾ってある。僕にとって、それは単なる道具ではなく、誰かの生活の息吹を宿した、静かな語り部のように感じられたのだ。


いつか、この「語らない物語」のようなものを、息子と分かち合えたらいいなと願っていた。だが、彼にとって僕が持ち帰る古い品々は、ただの古びた道具に過ぎなかったようだ。僕たちはまるで、異なる速度で回る惑星のようだった。互いの重力を感じながらすれ違い、でもどこかで軌道は重なっている、そんな不確かな関係性。

時が経ち、息子は建築家になった。それはごく自然な成り行きだったようにも思う。子供の頃から、彼はものの形に対して独特の感覚を持っていた。言葉では語らないが、鉛筆で描く線が、どこか遠くを目指しているような、汽笛が遠くで聞こえるような不思議な印象を持っていた。

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年に数回、彼から写真が送られてきた。無機質な表情のない建物、打ちっぱなしのコンクリート、スチールフレーム、無駄を削ぎ落としたファサード。どれも機能的で、冷静で、どこか都会の空気をそのまま閉じ込めたような佇まいだった。だから、彼の家に向かう道すがら、僕は自然とそういう家を想像していた。白い箱のような建物。中に入ればガラスと金属、そして合理性で構成された、僕の愛するホーローのキャニスターなど到底似合わないような、整いすぎた場所。


タクシーがゆっくりと坂を上がり、大きな欅の木がそびえ立つ場所で止まった。それは無限の時を経てもなおそこに立ち続けているように見えた。そしてその傍らに建っている家、彼の設計した自宅。そこに建っていたのはあまりにも想像とかけ離れたものだった。塗りむらも味わい深い漆喰の外壁。アンティーク窓とブルーの木製雨戸。あたたかみのある色合いの屋根瓦やテラコッタタイル。玄関の重厚なアンティーク扉には、真鍮の取っ手がついていて、時間の経過とともにくすみ、手の跡のようなものが残っていた。それはまるで、遠い異国の片隅でひっそりと時を重ねてきたかのようだった。


玄関の扉が、重厚な音とともに開いた。その瞬間、家の内側から、ふわりと一筋の空気が流れ出てきた。それはどこか乾いていて、やわらかく、わずかに甘い匂いが混じっていた。あの旅の記憶──南仏の夕暮れ、小さな村の石畳に吹いていた風。誰もいない中庭。低く飛ぶツバメ。軒下に吊るされたラベンダー。遠くで犬が一声だけ鳴いた。あのときの空気が、遠い時間を越えて、この小さな日本の町の片隅に、たしかに再び訪れていた。僕は、深く息を吸った。それは香りというより、気配だった。ずっと昔に胸の奥に沈めたまま、忘れたふりをしていた何かが、そっと浮かび上がってきたような感覚。そして、気がついたら、僕の口からこんな言葉が漏れていた。

「まるでゴッホが夢見た南仏の太陽のような家だ。この温かさ、そしてこの静かな気配……」

僕は自分でも驚いた。そんな言い回しは、普段なら使わない。だが、その場にある空気が、そう言わせたのだ。息子は一瞬だけ僕を見て、それからほんの少しだけ笑った。その笑いには言葉がなかった。でも、わかった。彼の中のどこかにも、同じ風が吹いていたのだろう。


「新婚旅行でフランスに行ったことは知ってるよね。最初はパリだけの予定だったんだけど、急に父さんと母さんが行った南仏が見たくなって、日程を伸ばして行ってみたんだ。そこで古い建築に出会って、僕のやりたいことはこれだ、って、はっきりわかった」

息子は静かに言った。その声は、遠い記憶を確かめるように、どこか囁くようだった。


リビングには静かな午後の光が流れていた。その光はまるで、海の底から昇ってくる音楽のようで、言葉よりも少し手前の場所に届いてくる。


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中央の飾り棚の上に置かれていたのは、ホーローのキャニスターだった。白く、少し黄ばんだボディに、赤いラインが静かにめぐっている。「Sucre」と書かれたラベル。知らない字体。けれど、それが何かを語っていた。言葉ではなく、沈黙の方で。


僕はしばらく黙って眺めていた。それは、記憶というよりも、もっと手触りのあいまいな何かだった。たとえば、雨上がりの匂いとか、旅先で聴いた知らない国のラジオとか、そういう種類のものだ。

「こういうものって、時間が内側から染み出してるみたいだな」

気づいたら、そんなふうに言っていた。僕の声だったけれど、少し遠くから聞こえてきたような気がした。


奥から彼女の声がした。やわらかく、でも芯のある声だった。

「それ、主人が買ってきたんです。蚤の市で。『これ、きっと父さんが好きなやつだ』って」

少し間があって、続けた。

「ときどき言うんですよ。『うちの父は、古いものの中に風が吹いてるって言う』って。なんか、意味はよくわかんないけど、ちょっといいなって思って」


僕は息子を見た。彼は小さく笑った。その笑いは控えめで、どこか内向きの光を帯びていた。かつて僕が、少年だった頃に見た、夕暮れの鏡の中の自分の笑いに、少し似ていた。


言葉はなくても、心はつながっていた。

胸の奥に溜まっていた静かな水が、堰を切って溢れてしまいそうだった。古いキャニスターたちは、棚の中で何も言わず、静かに並んでいた。しかしその無言は、僕に多くのことを語りかけてきた。想いは、静かに、水のように、どこまでも流れていく。岩の中を何百年もかけてすり抜け、やがて地上に湧き出る清水のように。言葉を交わさなくても、確かに、誰かに届く想いがあるのだと。

人生で最も美しい瞬間とは、自分の小さな願いが、どこかで誰かの心に静かに届いていたと知る時なのかもしれない。そして、それに気づくのは、たいてい、こんな何でもない午後だったりする。それは、静かで、しかし、深く胸に染み入る、切ないほど美しい記憶の断片だった。


リビングの飾り棚では、赤いラインが少し剥げたアンティークのホーローキャニスターが、静かに、あまりにも静かに、私たちの会話を聞いていた。遠いフランスの家庭で、幾度となく小麦粉や砂糖を注がれてきたそのキャニスターは、長い年月の中で、多くの人々の暮らしの音を聞いてきたのだろう。今日、この日本の家で、言葉を交わさずとも通じ合った父と息子の、静かで温かな心の響きを、また一つ、その無言の記憶に刻みつけた。古びたホーローは、ただの道具ではなく、確かにそこにある、生きた物語の証人だった。


あとがき・・・

この物語は、どこかの家の、なんでもない午後の出来事です。

僕たちは、誰かと本当に心が通じ合っているのか、確信が持てないまま日々を過ごしているのかもしれません。言葉を交わしても、それはただの記号にすぎない。大切な想いはいつも、水面下に沈んでいる。それが僕たちの不器用さだし、人間という存在の愛おしさでもあります。

ホーローのキャニスターは、誰かの生活の息吹を宿し、静かに物語を語る。そうした「古いもの」が持つ静かな存在感と、父と息子の言葉にならない心の交流は、どこかで重なっているような気がします。

あなたがこの物語を読んでいるとき、どんな風景を思い浮かべましたか?

例えば、遠い昔に聞いた、どこかの町の教会の鐘の音とか。あるいは、雨上がりの湿ったアスファルトの匂いとか。そんな風に、この小説があなたの記憶の奥にある、なにか大切なものと静かに繋がってくれたなら、書き手としてこれ以上嬉しいことはありません。

よろしければ、読んだ感想を少しばかり、聞かせていただけませんか。


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